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『パプリカ』 今敏×筒井康隆

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ここ2,3日ほど不眠状態だったが、眠い目をこすりながら頑張って『パプリカ』を観に行ったら、まんまと”夢”を題材にした映画だった。しかしこれが面白くて、逆に覚醒させられた。上映後にはすっかり、受付で『サントラ』と筒井康隆原作の文庫を求める男、になっていた。
最近、『夢』を題材にした映画が多い。これには何かはっきりした意味がありそうだ。
いやいや、それは今にはじまったことじゃない。昔から夢は映画の題材の宝庫だったじゃない、って声もあるだろう。F・フェリーニ『8 1/2』とか、黒沢明のその名も『夢』とか。

ぼくは学生時代、ゼミでフロイトと映画の勉強を平行してやって、映画が製作される一連の過程と夢が見られる一連の過程は原理的に酷似しているんじゃないか、という比較検討を拙い論文に纏めたことがあった。それからずっと、夢というのは、どっかで気になるテーマであったりする。この前、仕事で『ゆれる』の監督・西川美和さんにインタヴューしに行ったら、西川さんは夢から映画の題材を着想している、と言っていた。その話が面白かったので持ち時間を裂いて夢についてどう考えているか伺い、あまつさえぼくの持論を語って聞かせる一幕もあったが、その部分はもちろん記事にはならなかった。

表現と夢は、意識的・無意識的の相位で分かれてくるけど、原理的にかなり似てる行為だと、未だに思っている。映画は集団で撮り、集団で観るので、非個人的な夢という点が特徴的ではあるが。それで、少し飛躍するようだけど、表現と精神病の関連についてこんな話もある。アル中で精神病院に入り浸りだった画家ユトリロが、医者から絵を描くように勧められて、病状が少し快復したという話。とても示唆的な話だ。一般にナルシズムと言われる自己愛性人格障害とか境界性人格障害は、フロイト時代には治療の手立てがない、お手上げの病だったらしい。ところがオーストリアの著名な精神科医H・コフートが、確か1950年頃に治療法を発見した。それは、ナルシズム患者に芸術の表現手段を身につけさせること、だった。ユトリロのエピソードをそのまんま裏書きしたような話だけど、つまりこれは、個人の内側に抱えた夢(リビドー)を、社会のどこで交通させるか、という話である。そうなると、これは誰もが既に思ってることだろうけど、人の集合意識が交錯するインターネット空間も非常に夢じみている。ってな話をしてると、どんどん『パプリカ』の話から遠ざかっていってしまうようだが、実はちゃんと繋がっている。

ところで、この前試写で見たばかりの塚本晋也の『悪夢探偵』は、人の悪夢に入り込んで怪物と対峙する探偵(松田龍平)の物語で、いかにも塚本節な映画だったが、『パプリカ』もやはり人の夢に入ってモンスターと対決する女(パプリカ)の物語であり、話の設定の類似ぶりが凄い。こういう夢の映画でまず問題にされがちなのは、セカイ系かどうか、だろう。
ぼくは、今年創刊されたライトノベル誌『ノベルジャパン』の映画コラム欄を担当しているので、宮台真司が『映画芸術』最新号で以下のようなことを語ってるのに少なからず興味を惹かれた。

~小説の世界では2000年紀に入るころからライトノベルズ、とりわけセカイ系が隆盛です。ライトノベルズはかつてのジュヴナイルの等価物としての側面もあるけど、内容的には96年に流行った『エヴァンゲリオン』の碇シンジのような主人公を描きます。自分が救済されるとなぜかセカイの秩序も復元する。「自分の謎」と「世界の謎」が等置されるという内容です。ちなみにアニメ版の『ブレイブ・ストーリー』も『ゲド戦記』もそう。これをセカイ系と言います。不完全な主人公が自己承認に到ると、世界も秩序を回復する~

すごく極論的な言い方で、人間はみんな精神病って言い方がある。厳密には、人間はみんな精神病の傾向がある、ってことだと思うんだけど、意識と無意識の明確な区分というのは人間にはなくて、そのラインの相位が精神病か否かを決定する。でも情報化が進んだ現代は、大量な無意識がどんどん情報空間に流れ込んでるんで、意識的であること、精神の健常者であることは、リテラシーの基準を自分の中に設定して茫漠たる情報の海を渡っていく、という事態を指す。けど、それは簡単なことではない。ロジック的には主客転倒するような言い方になるけど、その”無意識的”な不安感や危機感が、夢を題材にした映画の量産に拍車をかけている”現実”がある。そういえば”セカイ”のタケシも『TAKESHIS'』なんて虚実の臨界点を突き詰めた映画を撮っていて、やっぱりこういう映画がぼくは好きだったりする。で、セカイ系の話を簡潔に纏めると、情報氾濫によって、自分/セカイの区分の文節が曖昧化したことで、自己承認と世界秩序の回復が一致する、という奇妙な世界観が生まれた、と言える。って、いつまでたっても『パプリカ』の話にならないようだけど、いや、ちゃんと繋がっている。

『パプリカ』の原作は筒井康隆で、最近は筒井康隆原作の映画化が多い。まず思い起こされるのが、細田護『時をかける少女』で、本年度アニメNo1の呼び声が高い傑作だ。『時をかける少女』は、いろいろ見どころが多いのだけど、最終的には、セカイ系でなかったところが評論家筋の支持を集めたのだと思う。主人公である女子高生は、自分の秩序を回復するために頑張るわけだけど、それは世界の秩序と交わらない。世界の秩序が優位にあって、少女の願望は打ち砕かれる。と言って後ろ向きなのでなく、少女から大人へ、というイニエーションをきちんと描いていて、淡い恋愛物語もきっちり決めている。ぼくも大好きな映画である。そんなことはいいから、『時をかける少女』より『パプリカ』の話を早くしろ、と言われそうだが、実はもう始まっている。

さて『パプリカ』に関しては、思うに、セカイ系かどうかって、どうでもいいんじゃないのって思う。え! じゃ、今までの長い前振りは何だったんだ?って話になってしまうけど。セカイ系という批評軸は、大きな社会学や文化論の観点に立った時に議論されなければいけないテーマだと思うけど、個人的な鑑賞については、実はどっちでもいいと思ってる。というのも、セカイ系の議論は下手をすると、ハッピーエンドで終わるのかどうか、みたいな結末の仕方に必要以上の議論が集中してしまうからだ。一般的には、どういうエンディングを迎えるか、ってことがけっこう重要らしく、『グエムル』の少女が死んだから『グエムル』はセカイ系じゃない、個人よりも世界の厳しさに焦点を当てている、とか、そういうのって、けっこう貧しい議論だと思う。エンディングなんて、ファンサービスの次元の問題であって、そこに至る過程の面白さに比較したら、もうどっちだっていいじゃないかって思う。ただ肝心なのは、ラストでなく過程に貫かれている世界観の立ち上げ方であって、それが安直な個人秩序と世界秩序の連動という形を取っているなら確かに問題かもしれない。その点、『パプリカ』は微妙な点を残している。ラストへの持って行き方もやや強引だ。というか、『パプリカ』の面白さは、物語がどう、ということじゃなくて、もっと単純に、今敏監督が、楽しんで絵を描いているな、っていう感覚が全面に漲っているのがいい。ぼくはまだ原作を読んでないけど、かなり物語は捨象して、絵それ自体の面白さを優先させたらしい。確かに、物語や細かい設定はよく分からないが、夢の中でだけ可能な、ダイナミックな連想的場面展開、その思い切ったテンポの速さと発想の飛躍に面白さがあった。主人公パプリカと、その正体の女科学者の分裂したキャラ設定は、萌えを期待する層をがっつり取り込む魅力に溢れている、とも言えるだろう。物語を語るための絵じゃなく、絵を見せるための物語、という割り切りがハッキリ感じられ、今敏のエンターテイメントに特化させた潔さとクールさに比べれば、セカイ系の議論なんてどうでもいいように思えてくる。あとサントラもいい。

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