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『恋人たちの失われた革命』 フィリップ・ガレル

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今年に入って手応えある映画を立て続けに観ている。
『それでも僕はやってない』 周防正行
『魂萌え!』 阪本順治
いずれも良かった。特に『魂萌え!』は本当に素晴らしく、号泣ものだった。
でも今回は、今日観てきたフィリップ・ガレル『恋人たちの失われた革命』の印象を忘れないように、いくつか簡単にメモっておきたい。

この映画は、流通している他の映画と同じ評価軸では論じられない。『それでも僕は……』、『魂萌え!』も優れた作品だが、これらは観客に向かって作られている。一方、フィリップ・ガレルの作品は、なによりまず監督自らに向けて作られている。もともと作品に対する倫理が別種だから、同じ評価軸で論じられない。
では、監督自らに向けて作られた作品を、観客が観るとどうなるか。監督の主観的な何かが、もしかしたら観客一人一人の主観に重なることがあるかも知れない。ないかも知れない。重なった場合、その重なった部分が、本当の意味での普遍なのかもしれない。真の客観が、真の主観の寄せ集めならば。

エンターテイメントの志向性が微塵もない。さもしさがない。

結果的に物語が浮上するが、物語そのものを描こうとしていただろうか?
物語を語るためのカットや台詞が一つでもあっただろうか?
なかった、と思う。
断片的な生活の素描が集積した結果として、物語が感じられたというだけではないか。
逆に言うと、ここまで物語の説明を排除しても、物語は幽霊のように現れる。
物語の代わりに、何が映っていたか?
金太郎飴のように、どこをどう切っても、生身の生活がそこにあった。
それは取り立てて、ぼくらが普段そうだと思い込んでいる映画的なシーンではなかったかもしれない。
何気ない生活の一断面が絶え間なく流れるが、すべて生身の生活だった。
どこからスタートさせ、どこでラストにしても、たぶん成立するのではないか。仮に10分でも。
でも、本当にそうだろうか?
3時間という長さが、その長さそのものが、何か意味というか、力を持っていないだろうか。
端的に小説に喩えると、短編より長編の冊子のほうが、手に取ったときに「ずしりと重い」というのと同じような意味で、長さそのものに、「重さ」に匹敵する力がなかっただろうか。
3時間という長さ、その中に息づくテンポは、日進月歩で科学的な進化を遂げていく猛スピードの時代にあって、真っ向から逆行しているようにも見える。

他にも驚くべきことがある。

間もなく60歳になろうという監督が、20歳の若者の恋愛を撮り得るという事実。
主役フランソワを演じるのはフィリップ・ガレルの実の息子、ルイ・ガレル。
恋人のリリーと、昼間の散歩のシーン。
リリーが、「いまこの瞬間を忘れないで」と、フランソワに言う。
なんでもない散歩の場面でだ。
こんな印象的なシーンを60歳の監督が撮るのは、けっこう驚嘆すべきことじゃないか。

ところでこの作品は、世界に向かって閉じているだろうか。それとも開かれているだろうか。
今の日本の純文学がそうなりがちなように、世界と断絶された、芸術という名の真空空間に追い込まれているだろうか。それとも、世界との接続面を有しているだろうか。というか、世界と向き合う、とはそもそもどういうことだろうか。世界の前に自分と向き合うということ。

興行面では、ニッチ的に閉じた感があるとしても、スクリーンに投影された光と影は、そのまま世界に開かれているように思う。逆に言うと、世界と等価過ぎるために、非日常を描く映画の興行的な意味を奪われて単館(東京都写真美術館ホール)に閉じ込められているのではないか。

では、そもそも、世界と等価なものをスクリーンに出現させるという行為は、いったいどういうことなんだろうか? 単純な生活を追っかけ回したドキュメンタリーではない。ドキュメントよりもっともっと複雑か、あるいはもっともっとシンプルな表現だ。ドキュメントではないが、何かを「再現」しているというのもなにか違う。再び現すのではなく、やはり出現だろう。出現したそばから消えていく再現不可能なもの。人生=世界と等価なもの。世界を丸ごとそのように現す行為。
しかし、リアルというのとは違う。リアルというのは本来、フィクショナルな、不自然なものだ。本当にもし世界と等価なものが現れたら、リアルなんて呑気な言葉は当てはまらないんじゃないか。でも、幻想とか詩でもない。主人公は詩人だが、作品は散文だ。

スクリーンに投影されたな光と影、世界との等価物。それはつまり、「生活の風景」。そしてそれは、現れたその瞬間から消えていく。それでも最後に何かが残るなら、なんだろうか?
それは、その『生活と風景を見ていた私』ではないだろうか。監督自らの視線だけが、限りなく純粋なものとして残される。
監督は、何かを見てきた。何かを見ながら生きてきた。生きながら何かを見てきた。丸ごとそのままが映っている。これはすごい。

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