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『ブロックブッキング』の功罪

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ブロックブッキングは、大手映画会社(今なら東宝、松竹、東映)が、約一年先までの配給計画を用意し、系列の劇場が配給計画に従って興行を行うという邦画界の特異なシステムである。この構造だと、仮にヒット作でもあらかじめ決められている上映期間で打ち切られるし、逆に評価の低い作品でも上映期間を確保することでそこそこ集客する。例えば『ゲド戦記』が○○万人動員したと言っても、ブロックブッキングで劇場数と上映期間を守った形での集客なので、一つの劇場当たりの収益率、つまり純粋な作品の支持率を表すパー・スクリーン・アベレージで見れば惨憺たる結果であったりするらしい。

ブロックブッキングが邦画界の構造を硬直させている、という批判は前々からある。つまり、どんなに優れた作品であっても、ブロックブッキングに組み込まれない限り、単館あるいは少数の劇場でしか上映されないのである。いくらそこでロングランを重ねても、アメリカや韓国のように劇場数を拡大していく流れにならないから観客動員に限界がある。代わりに大手が作った低調な映画が、強力な宣伝をバックにして全国公開される。これでは健全な自由経済とは言えない。具体例で言うと、いま日本でも上映中の『リトル・ミス・サンシャイン』は、非常に優れたハートフル・コメディで、アメリカでは当初単館上映だったのが、人気を反映して一挙に全米公開となった。絶対に客受けする良い映画なのに、日本では2館くらいでしか上映されておらず、しかも構造的に拡大することもない。ブロックブッキングは、関税で守られた稲作を保護しているのと同じである。

10年以上前から徐々に増えてきたシネコンは、大手配給会社に系列ではないので、劇場主体の興行を打つことができるという。ここにブロックブッキング打破の兆しがあると言えば言えるかも知れない。大手の支配下にないのだから、頭のいい劇場経営者だったら『リトル・ミス・サンシャイン』をやるべきだ。
大手の外にいる独立系の映画人はみな、ブロックブッキングを煙たがっている。いくら良い映画を作っても多くの劇場でかけられないのだから当然だ。自分は単なる映画ライターだが、やはりブロックブッキングは不健全だと思う。しかしよくよく冷静に考えてみると、批判だけに終始しているわけにもいかない。昨今、大手TV局が参加した邦画は興収を伸ばして勢いづいている。珍しく邦画が洋画より強くなっているのだ。ところがまさに今ちょうど節目を迎えていて、また邦画から洋画への転換が起ころうとしているらしい。主な原因は、ここ数年でTV局が主導してきた映画作りの方法が、もう観客に飽きられ始めているからである。東宝がTBSと組み、20億の巨費を投じた『どろろ』が黒字を出せるのか、非常に疑問だし、邦画界のガリバーこと角川春樹が30億で製作した『蒼き狼~地果て海尽きるまで~』も、どれほどの人が観たいと思うのか? 前者は塩田明彦、後者は澤井信一郎、いずれも力量ある監督だが、20億、30億の予算を与えて、果たして充分な作家性を確保しながら映画製作ができるのか。CG班だの美術班だのアクション班など、製作パートが多岐化する分だけ監督の個性が薄まっていくような気がする。つまり、もはや塩田や澤井という個人の監督ではなくて、ビジネス・モデルが一人歩きして映画を作っているのではないか。そういう骨抜きされた映画が、いつまでも大量の観客を動員できるわけはない。いまがちょうどその節目なのだ。すると、邦画が弱体化した当然の結果として、洋画の盛り返しが必ず来るはずだ。我々観客としては、邦画だろうが洋画だろうがアニメだろうが、純粋に面白い映画を劇場にかけてほしい。東宝・松竹・東映の大手3社も、邦画がダメと判断すれば、ヒットしそうな洋画を買い付けて自社の系列劇場に配給し、収益をキープするだろう。しかしその大手3社も、いまや製作の大分を外部プロダクションに投げているとは言え、共同製作なり共同出資なりという形で年間20本なりの映画を手がけるのだから、やはり自社映画もブロックブッキングで守りたい。国が稲作を保護するように。

このブロックブッキングという鉄壁のガードは、二方向に対して働きかける。邦画が順調なときは、国内の独立プロが製作した良作を弾き出し、邦画が低調なときは、必要以上の洋画の侵入を防ぐ、というわけだ。そして後者の場合に限っては、遺憾ながら、確かに邦画界全体を守る役目を果たしてもいる。考えてみれば分かるように、もしブロックブッキングが完全になくなって自由競争が行われた場合、エンターテイメントにおいて、質量ともに邦画が洋画に匹敵することは困難である。基本的に邦画が国内市場だけを相手に映画作りしているのに大して、ハリウッドは世界全体を市場に映画作りしている。ということは、そもそも興行収益が桁違いなのである。興行収益が違うというこは、それを見込んだ上でかけられる製作費も桁違いなのである。世界市場を想定するからこそ超大型予算のブロックバスター映画が作れるわけだ。邦画と洋画では、エンターテイメント製作において、立っている土壌が違う。もちろん、本来は予算と映画の面白さは関係ないのだけど。ともかくそうなってくると、ブロックブッキングが国内産業としての邦画を守る役目を果たしていることは、遺憾ながら事実であり、必要悪なのかも知れない。ブロックブッキングがなくなれば、日本はあっという間に洋画に食い潰されてしまうだろう。そうなっても構わないのではないか、とも思うが、それではいよいよ、日本映画が製作される土壌すら廃れていってしまう。産業全体が縮小してしまう恐れがあるのだ。

さらにもう一歩踏み込んで考えてみたいのが、邦画が面白くなくて、さらに洋画も面白くない場合だ。充分にあり得る状況だが、仮にそこでブロックブッキングを外すと、大きな宣伝力を持たない劇場側が邦画でも洋画でも当たりを取れないため、どんどん潰れていき、国内の映画産業全体が沈没しかねない。自由競争とはそういうことだ。しかしブロックブッキングであれば、それほど面白くない映画であれ、豊富な宣伝費を活用し、全国の劇場と一定の上映期間を確保しながら興行を打てるので、不健全な形であれ『ゲド戦記』的な観客動員にこぎつける。

ブロックブッキングには功罪の両面があるということだ。問題を根本から解決するためには、当たり前過ぎることだが、本当に面白い(集客力ある)映画を量産するということだ。一方で芸術性がある映画をもっと多くの劇場でかけたい、となると、これはもう、製作側の問題ではなくて、観客を教育していく場が必要になってくる。宮台真司が、これからの映画産業を守っていくなら、映画学校で製作面だけ教育するのでなく、観客をどう育てていくかという面もフォローしていくべきだ、と言っていたが、まさにそういう取り組みが必要なのだろう。そうなると、批評家や評論家の活躍の場も、どんどん広がっていかないとならないだろう。

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